『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が示した生存の応え

2021年3月8日に公開された『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、世界のあり方にひとつの応えを出した。

その応えは、ひとことで「神なき、A.T.フィールドなき世界」と要約してそう間違いはないと思う。

フォースインパクトが目指したもの

この物語は、あるいは、碇ゲンドウを救済する物語だ。

人間世界は、個体の多様性を前提に成り立っている。

多様性とは差異のこと。もっと言えば、どこまで突き詰めても共感したり理解したりすることのできない「わかりあえなさ」のことである。

近代以降、人類は一人称としての〝私〟という概念を得た。

〝私〟と〝他者〟との間に明確な分水嶺を設けることで、結果として、それまでひとつの大きなうねりのなかにあった世界でそれぞれの〝私〟が孤立した。

当然、〝私〟と〝他者〟の間には精神的な軋轢が生まれる。

悲しみや怒り、孤独、嫉妬・・・。

「知恵の実を食べた」とは、人間が近代以降に発見した、この〝私〟と〝他者〟との間に分水嶺を設ける思考様式、それへのメタファーである。

(※知恵のない動物や使徒などは、〝私〟と〝他者〟の間に明確な境界がなく、世界はひとつの目的のもとに一体化している)

人間世界において、私とあなたは完全にわかりあうことはできないーー。

そのことを知ってしまった我々は、この先どれほど時代を重ねても、他者との間でたびたび起こりうる軋轢を克服できることはないだろう。

なぜなら知恵とは不可逆的だからだ。一度得た知恵を捨て去ることは二度とできない。

わかりあえない個体同士の交わりにより傷つくことを恐れた人間は、「A.T.フィールド」なる〝心の壁〟で世界から自分を閉ざした。

「A.T.フィールド」は、硬く、そして透明だ。

透明だから表面上は〝私〟と〝他者〟が接続されているように錯覚するが、その実、精神的にはそれぞれが強固に閉ざされている。

碇ゲンドウが目指した世界は、「A.T.フィールド」なき世界。

物理的にも、精神的にも、〝私〟と〝他者〟との間にある壁を取り払うことで、ひとつの完全な魂の生命体をつくりあげようとした。

それがフォースインパクト。

人間世界の〝私〟と〝他者〟を完全に統合しようとする試みだ。

それは、物理的にも精神的にもひとつの生命体を目指すという意味で、前近代に戻るという単純な話ではない。

「ヴィレの槍」とは〝志向性〟のメタファーである

碇ゲンドウは、シンジとの会話のさなかで自己矛盾に気づく。

「A.T.フィールド」なき世界を目指すゲンドウ自身が、息子シンジとの間に(無論、リツコやミサトとの間にも)強固な「A.T.フィールド」を形成してしまっていた。

フォースインパクトにより人類がひとつの完全な魂の生命体になり得たとしても、あらゆる世界には必ず〝外部〟がつきまとう。

〝私〟と〝他者〟の融合は、巨大な〝私〟にしか帰着しない。その巨大な〝私〟には、また姿を変えた新たな使徒が襲ってくるだろう。

それでは本末転倒だ。

そして本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は、そうしたゲンドウの自己矛盾に対するひとつの解として、他者との分かり合えなさを所与とした共存の世界を示した。

〝私〟は、世界に接続し、〝他者〟を〝他者〟として認め、彼らとの交わりを通して〝私〟と〝他者〟の両方を変化させていく。

確固とした〝私〟がはじめから存在しているのではなく、関係性(≒志向性)の両端で〝私〟や〝他者〟が都度更新されていくという考え方だ。

こうした考え方自体は、20世紀前半に西洋哲学が築いた現象学のフレームワークを踏襲しているため、さほど目新しいものではない。

ただ、本作ではその志向性を「ヴィレの槍」という形で視覚的に具象化している。

その槍は、僕の記憶の残像を辿れば、両方向に槍のついた青と赤の(まるでコンパスのような)それだ。

〝他者〟に向かって語りかけることは、〝私〟に対して語りかけることでもある。

「ヴィレの槍」は、ときに応じて違った形に変容し、私と他者を、そして世界を、ゆるやかに変化させていくだろう。

ミサトはシンジを信じ、シンジはゲンドウを受容した。

そのように、自分自身の殻に籠るのではない、〝私〟から〝他者〟に、〝他者〟から〝私〟に接続されていく媒介としての槍。

その世界はひとつの真理に一元化されたそれではないため、神も存在しない。

わかりあえない他者と私の、それでも会話を続けていく志向性。

「A.T.フィールド」はゆるやかに溶けていく。

本作は「自分の人生を生きろ」へのアンチテーゼ

昨今、「自分の人生を生きろ!」という人生訓が幅を利かせている。

昨年末にpaypayドームをいっぱいにした人気YouTuber・DJ社長は歌う。

神なんていねえよ!

運命なんてねえよ!

俺が選ぶ素晴らしきくそったれな人生。

自称・事業家の竹花貴騎氏は、「LIFE  IS  MINE」の頭文字をとったLIMグループを起点に、一時期、鳴り物入りで多くのフォロワーを獲得していた。

他には、社会で何かを成し遂げるより自己資産の拡大に熱をあげる若年層が増えているという。

これら時代のメンタリティに通底しているのは、「自己の利益のために自分の人生を生きる」という、閉ざされた〝私〟への信仰だ。

この場合、目的は〝私〟の内部で完結している。彼らにとって〝他者〟とはコントローラブルな手段にすぎない。

彼らは「神はいない」と歌いながら、その実、「私=神」に据えた宗教をいかに築き上げるかに奔走している。

たとえ本人たちはそのことに無自覚であったとしてもーー。

僕は、本作『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』をそうしたエゴイスティックな時代の空気へのアンチテーゼとして受容し、一筋の涙を流した。

肥大化した自己は、最終的にはフォースインパクトに帰着する。

〝私〟の外に出て〝他者〟への志向性に身を委ねたい。

素直にそう思った。

液体のように、輪郭がほとびていく感覚。

夢や挑戦を抱くのではなく、純粋に世界との交わりを楽しみ、自己の移ろいに身を浸す喜び。

庵野先生、素敵なひとときをありがとう。

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